Out In the StreetとAtlantic City

 

 

 

最近、自動車教習所に通ってるせいか1日10時間はブルース・スプリングスティーンの音楽を聴いています。

自分には好きなアーティストについては半端に言葉を費やしたくない、とかいうどうでもいい自意識があるのですが、スプリングスティーンを聴いてると感情を揺さぶられずにはいられず、その感動を何かに表したくなります(親父のロックという認識のまま自分と同世代の若い音楽ファンに避けられているとしたらあまりにも惜しいので)。

今回はそういうわけで、スプリングスティーンへの思いについて何とかしたいので文章を書いてみようかなと思います。

 

今回取り上げたい2曲はブルース・スプリングスティーンの「Out in The Street」(1980)と「Atlantic City」(1982)という曲。

 


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なぜこの2曲を取り上げるのかというと、この2曲の歌詞では使われている語が似通っており、ものすごく単純化した話の内容としてはどちらもある女性に対して「髪をセットして、着飾ってきて、今夜、俺と会おうよ」といっている曲ではある(この時期のアウトテイク「Take 'Em as They Come」など複数の曲でこのタイプの歌詞が出てくる)んですが、全くと言っていいほど雰囲気が異なり、それでいて、この2曲の主人公にはどこか共通するものを感じてしまうという自分自身の印象から決めました。

 

「Out In the Street」はE. ストリート・バンドのパワフルな演奏、パワー・ステーション・スタジオのビッグサウンドなどが重なり、「最高のドレスを着て、髪をアップにしてきてよ / だってパーティーがあるんだから」という冒頭の宣言に違わずのとても賑やかな印象を受けます。

一方、「Atlantic City」の方はスプリングスティーンの弾き語り音源を基にしているだけに質素な、それでいてただならぬ雰囲気を漂わせたまま、サビでは「全てのものは死んでいく、それは事実だ」と繰り返します。何かを覚悟したような主人公の男は「化粧をして、髪を整えてきて / 今夜、俺とアトランティック・シティで会おう」とだけ語ります。

 

「Out In the Street」の主人公は1週間のうち5日間、埠頭で働いた後に待っている週末が彼の一番の楽しみというブルーワーカーで、「表通りに繰り出すとき、一人じゃないと感じるのさ」、「俺が表通りに繰り出すとき、悲しさも寂しさも感じないんだ」と高らかに歌われる姿は、その瞬間以外の彼の生活がいかにフラストレーションの溜まるものかということを逆説的に示しています。

作業服に縛られずに、仲間に囲まれ、やりたいことができる週末の夜こそ家だと感じられるという彼の心の昂ぶりがスプリングスティーンの血管が切れそうなくらいの熱唱によって痛いほど伝わってきます。

数時間の楽しみに心躍らせる彼とは異なり、「Atlantic City」の主人公の目の前にあるものは「正直者ではとても返せないほどの借金」であり、彼はなんとか残りのお金を全て引き出し、バスのチケットを2枚用意するのです。

サビでは「全てのものは死んでいく / それは事実だ」と語ったあとで、「だけど、死んだもの全てがいつか戻ってくるかもしれない」と歌いますが、咽び泣くようなスプリングスティーン本人のバックボーカルがそこに肯定的な感情を与えてはくれません。

彼は自分たちは「砂が黄金に変わる場所」へ行くんだと言います(アトランティック・シティは当時カジノで復興しようとしていた)が、直後の「ストッキングを履いて / 夜は冷えるから」と言って「君」を気遣う様子は彼らの前途が多難であることを示しているような気もします。

「ずっと仕事を探してきたんだ / けど見つからない」、「敗者の列に並ぶのはもう疲れた」という痛切な言葉が並ぶ最後のヴァースは昨夜出会ったある一人の男に頼みごとをするところで終わっています。

果たして、この主人公と「君」は男を頼った結果、理想の未来へとたどり着けるへとたどり着けるのでしょうか?。恐らく、曲の雰囲気からして、それはきっと無理なんだろうという絶望感が胸に残ります。

 

この2曲を並べて聴くと感じるのが、週に数時間の刹那の楽しみを享受する者と無情の苦しみに苛まれている者というはっきりとしたコントラストです。

この2曲の差異を生み出しているものの一つとして固有名詞の有無が挙げられます。「Out In the Street」は通りの名前を具体的に示さないことで、どこにでもいるブルーワーカーが感じる喜びという普遍性を際立たせ、リスナーが主人公の心の昂ぶりに共感しやすくなっています。

打って変わって「Atlantic City」はタイトルから実際の街を提示することで、街の変化やその意味合いを意識させ、極限状態に陥っていく主人公の心情を重層的に表現することが出来ているように感じます。

偉い人の表現を借りると、ブルース・スプリングスティーンは、偏在し遍在した(『ソニック・エティック』, 陣野俊史, 1994)と言うことが出来ます。

スプリングスティーンはどこにでもいる個人と今ここで苦しんでいる個人の両方を代弁できるシンガーであり、その個人は歌われている内容は違えど、苦しむ日々をなんとか耐え抜いたり、そこからの脱出を決意するものであったりして、彼らが抱えている苦労やその境遇は根本的には同じなのだと感じられます。

 

スプリングスティーンの曲は未来への希望を描いていると解釈する向きもありますが、「Atlantic City」や「The River」といった曲を聴いた後に、「Out In the Street」の主人公や「Born to Run」の2人が辿るであろう歌詞では示されない結末が明るいものになると思えるでしょうか。

 

スプリングスティーンは常に夜を、暗闇を見つめたまま、答えを示したりしませんが、きっと、かつては繁栄の証であった車(「自殺マシーン」)で暴走した挙句、「死のトラップ」に足を取られてしまうのではないかという言外にある大きな不安は決して消えません(だからこそ「Out In the Street」の瞬間の享楽がより胸に響く)。

 

自分はスプリングスティーンが描き出す、世界最大の資本主義国家アメリカというバッドランドの巨大さに押し潰されてしまう人々の無力さとそれでもその苦境を耐え抜き、暗闇に一歩を踏み出す儚い力強さという部分に聴くたびに心揺さぶられてしまいます。

 

異なる曲の主人公がパラレルに結びつく瞬間、そのときにブルース・スプリングスティーンを聴くときにしか感じ得ない、曲で描かれていることへの連帯感というものを感じることが出来るのです。

 

最後に、ブルース・スプリングスティーンは70~80年代に全盛期を迎えたアーティストではありますが、現代に聴いてもその音楽にはエモーショナルに響く部分があります。

 

カウンター・カルチャーの時代である1960年代を代表するアメリカ映画『卒業』の有名なラストシーン。主人公のベンジャミンがエレーンの結婚式に駆け付け、2人で式場から逃げ出すことに成功したバスの車内で、喜びの表情が一転、未来への不安に変わる時に「Hello darkness my old friend」の一節から始まるサイモン&ガーファンクルの「Sound of Silence」が流れます。

 


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つかの間の逃走の喜びとその先にある不安定な未来。これは社会からの逃走の夢をハイウェイに託し、先の見えない夜や暗闇を駆け抜けてゆくスプリングスティーンの曲にも当てはまるものではないでしょうか。

 

ブルース・スプリングスティーンは60年代の反抗精神の神話を受け継ぎながら、逃げようとしたその先の夢の喪失をも描いてきたアーティストであり、反抗なんて意味がない(その先が無い)と分かり切っている現代だからこそ、その喪失の部分がよりアクチュアルに響く。自分がスプリングスティーンに惹かれるのは結局そういうところではないのだろうかと感じます。